missing trace -週末美術館- 久保田沙耶×松島潤平

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久保田沙耶

線香でトレーシングペーパーを焦がし、半透明の枯れ葉のような焦げ紙を積層させながら、一つのイメージを浮かび上がらせていく。炭化したトレーシングペーパーはインクの黒よりもはるかに濃く不透明で強い存在感を放つ。しかし焦がしすぎると一瞬にして紙そのものが消えてしまう。煙の中、消える真際の境界線に遊ばれながら、たくさんの小さなお別れをしているようだ。
わたしはよく物を失くす。モチーフからも、顔を失くし、首を失くし、からだを失くし、尊厳を失くしてしまった。失くしものはいつも遠く果てしなくなっていく。それらをはみ出る焦げ目で繰り返しなぞって重ねていけば、いつか存在をぶれたまま捕らえることはできないだろうか。あるべきかたちの正しさを忘れて、あるべき存在の強さへ届くために。

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幽霊の足跡
「missing trace」によせて

建築家/批評家 松島潤平

ジョン・アーヴィングの小説に『ピギー・スニードを救う話』という短編がある。豚舎で暮らす、臭くて醜くて言葉も通じない男ピギー・スニードが、ある晩豚舎の火事で豚とともに焼け死んだ。生前のあまりにも酷い扱いを憂いつつも、そこに少なからず加担していた主人公(アーヴィング自身)は、最期まで救われないこの男に対して「実はスニードはこのどさくさに紛れて街を抜け出して、あらかじめ計画していた第二の人生を始めたんだ」という虚言を、消火活動を手伝う火事現場で唐突に語り出す。

しかし罪滅ぼしの意識と、一瞬で思いついた自分の虚言にその場の全員が耳を傾けてくれることの陶酔が
分離すらできないほど間もなく、あっさりと死体は見つかってしまう。その短い状況のさなかに、アーヴィングは文学の生成する瞬間を見るのだった。作家の仕事とは、ピギー・スニードの命が助かった場合を想定すること、火事を起こしてピギーを窮地に追い込むこと、そのどちらでもあるのだ、と。

彼の祖母は言う。「おやおや、ジョニー。だからスニードさんが生きてた時分に、もうちょっと人間らしい扱いをしてやってれば、そんな面倒くさいことをしなくてもよかったろうに」。
それができなかったアーヴィングは、いまにして考える。「作家の仕事は、ピギー・スニードに火をつけて、それから救おうとすることだ。何度も何度も。いつまでも。」

「missing trace」にも、この「暴力と鎮魂」の構図は重ねられる。膨大な労力と確かな画力によって真摯に描かれたものたちは、線香の火で焦がされ、体の重要な器官が奪われ、窮地に追い込まれている。しかしその危うい輪郭から、忘れられていた彼らの強烈な存在感を取り出すことで、彼らから奪い上げた尊厳を、大事に、大事に、祭り上げているのだ。

生命性が奪われ、「存在感だけの存在」となったものたち。それって要はお化けのことだ。つまりこれは現代の幽霊画なのだ。幽霊画は足が無いのがお約束。部位の欠損したかたちが、幽霊という「存在感だけの存在」を確かに捕らえていることを思えば、この作品の持つ強度の仕組みは理解できよう。サモトラケのニケ然り、ミロのヴィーナス然り、欠損こそが果てない魅力と迫力を生むという論はよく聴かれることだ。

生命のその先にある存在感を直に握るために、かたちを忘れるためのかたちを描き、足無き幽霊の足跡をなぞる。尊厳へ直に触れるために、顔を潰し、首を落とし、からだを奪う。焦げ紙とともに“逆説”を何重にも積層した、ねじれた慈愛表現の超具象絵画。「スニードを救うために、火をつける」とも言い換えられるこの作品の創作動機は、アーヴィングの言う文学のねじれた生成原理「スニードに火をつけて、それから救おうとすること」から、更にもう一回ねじれている。それだけの狂気を孕んだ、ひたすらに強い作品。

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2010年
トレーシングペーパー、線香、火、紙、アクリルガラス