still life -週末美術館- 久保田沙耶×松島潤平

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久保田沙耶

壮大な工業団地の砂捨て場を訪れたとき、生まれてはじめて風景に対して「持って帰りたい」という物欲に等しい愛おしさを感じた。土地を抱きしめたい、手のひらに握りたい衝動を一体どうすればいいのか。環境を、物に還元するにはどうしたらいいのか。
そこで思い出したのは、飛行機から眺める大地や街並が肌と同じスケールのテクスチャーに見えること。スケールを超えるために世界の毛並に身を溶かして、一体の肌理(きめ)となろう。私と地球の関係においては、持って帰るのも、持って行かれるのも同じこと。そのとき私も、風景も、地球すらも、おしなべてひとつの静物 / still lifeとなる。

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まだ、生命
-「still life」によせて

建築家/批評家 松島潤平

服が大地に貼り付いていたらどう思うか。からだが空に蒸発したか、砂に溶けたか。
誰もがそんなこと起こり得ないと知っていながら、ついそんなことを夢想してしまう。

この写真作品には『still life』というタイトルが付けられている。「still life」とは、日本人にとってはなかなかややこしい言葉だ。「still = 静止した」「life = 実物」、つまり「静物画」の意味となるのだが、英単語を素直に受け取りがちな我々は、「still = まだ」「life = 生きている」という直感的誤訳をしてしまう。ところが、静物画に描かれる加工された自然物や人工物を見ると、その「まだ、生命」という単純な誤訳が間違っていないような気もしてしまう。

池澤夏樹氏の小説『スティル・ライフ』には、その複雑なニュアンスのヒントが示されている。山は地面が隆起したものだと知っている。しかし、山には山の元素が、森には森の元素が降り積もってできたような誇大なイメージを人間は感じることができる。物事の仕組みや成り立ちが明らかになるほどに、人は夢を見ることが許されるような、そんな心持ちについての静かな物語。

写実の精度が上がるほど、物の性質が正確にわかるほど、その物は定義付けされ、固定される。静止する。死ぬ。その代わり、それまで物が持っていた「不確定さ」というミステリアスにブレる動性が、人間のまなざしの方へ移植されるのだ。ならば我々は、天文学的な数の原子から動性を奪い、天文学的な数の新たなリンクをつないで、奔放な引力を与えようじゃないか。そうすれば、静止していく世界は、なお、生きている。きっと「still life」とは、頭も体もせわしなく揺れ動く人間を逆照射するような役割として生まれたに違いない。

そんなブレた目線で、世の中の静物画とされているものをじっと眺めると、ある時間断面におけるそれぞれの物の水分含有量の違いこそを描写しているように見えてくる。一方この写真は、どこまでも乾いた空と地面に、65%が水分でできている人間が溶けている。さて、水分はどこにあるのか?
そのとき、自らの眼球を覆う水分に気付く。実は常に水面越しに風景を眺め、物を見つめている我々のまなざしこそが、世界に水分を与え、なお生かし続けていくものなのだと知る。

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